【奈良】「大和王家と関わり深い」 ヒエ塚古墳後円部、直径70メートル…邪馬台国の女王「卑弥呼の墓」説ある箸墓古墳と同時代の築造

後円部北側で出土した葺石。下部の大きな石が基底石で、さらに下に周濠が見つかった(天理市で)
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新たに確認された墳丘の裾を示す基底石と周濠=奈良県天理市萱生町のヒエ塚古墳で、矢追健介撮影
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 天理市萱生(かよう)町の前方後円墳「ヒエ塚古墳」の後円部が、想定より10メートル大きい直径70メートル規模であることが分かり16日、
同市教委が発表した。古墳の全体像の解明につながる成果という。

 ヒエ塚古墳は、邪馬台国(やまたいこく)の女王、卑弥呼(ひみこ)の墓との説もある箸墓(はしはか)古墳(桜井市、全長280メートル)と
ほぼ同じ古墳時代前期前半(3世紀後半~4世紀初め)の築造。昭和52年と平成14、25年に行われた測量・発掘調査の結果、
全長約130メートル、後円部は直径約60メートルと推定されていた。

 今回市教委が後円部北側で行った調査で、後円の周囲を囲う周濠(幅約5・8メートル、深さ約50センチ)と墳丘を飾る葺石を確認。
これらの位置から、後円部は想定より大きい直径70メートル規模であることが分かった。

 市教委文化財課の村下博美主任主事(28)は、
「築造時期や規模から、大和王家との関わりが深いことは間違いない。本来の大きさの解明に向けて引き続き調査を進めたい」と話した。

 19日午後1時半から、現地説明会が行われる。問い合わせは、市教委文化財課。

http://www.sankei.com/region/news/170217/rgn1702170060-n1.html

 ◇天理 後円部 想定より10メートル大きく

 天理市萱生町前方後円墳・ヒエ塚古墳(3世紀後半~4世紀初め)で、後円部北側の周濠を確認したと、天理市教委が16日発表した。
後円部の大きさが、外観から想定されていたよりも10メートル大きい直径70メートルになりそうだという。

 同古墳は全長約130メートルとされてきたが、正確にはわかっていない。
古墳時代前期の前方後円墳が集中する大和古墳群の一つで、ヤマト王権を支えた有力者の墓と想定されている。
史跡指定を目指すため、1月中旬から古墳の範囲などについて調査を進めていた。

 墳丘の外側を発掘したところ、幅5・8メートル、深さ50センチの周濠を発見。
2014年には後円部南側でも確認されており、古墳を取り囲んでいたことがわかった。
周濠と墳丘との境目には、墳丘の裾部分を示す基底石(最大で幅約50センチ)が横並びに据えられているのが見つかり、
さらに上部には墳丘の葺石があった。埴輪は出土しなかった。

 村下博美・市教委文化財課主任主事は「当初の形状がわかる成果」と話した。
現地説明会は19日午後1時半から。付近に駐車場はない。問い合わせは同課へ。

http://www.yomiuri.co.jp/local/nara/news/20170216-OYTNT50311.html

 天理市萱生町前方後円墳「ヒエ塚古墳」の発掘調査で、後円部の墳丘の裾を示す基底石や周濠が確認された。
市教委が16日に発表した。後円部の直径は従来の想定より約10メートル大きく、70メートル程度だった可能性が高いという。

 市教委は史跡指定を目指す調査の一環で、1月から後円部北側で幅約2メートル、長さ約30メートルの範囲を発掘。
墳丘は後世の耕作などで削られているが、基底石(最大約50センチ)が数個並び、墳丘斜面に拳大の石を積んだ様子が確認できた。
墳丘を囲む幅約5・8メートル、深さ約50センチの周濠も見つかった。

 同古墳は1977年に測量され、全長約130メートル、後円部直径は約60メートルと推定されてきたが、
今回の調査で後円部は一回り大きいことが判明。周濠の底で出土した土器の形式、
埴輪(はにわ)が見つからないことなどから古墳時代前期前半(3世紀後半~4世紀前半)の築造とみられる。
市教委は「ヤマト王権の有力者の墓である可能性がある」としている。

 現地説明会が19日午後1時半~3時半に開かれる。駐車場はない。【矢追健介】

http://mainichi.jp/articles/20170217/ddl/k29/040/555000c